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熊本地方裁判所 昭和34年(わ)149号 判決 1960年7月01日

被告人 立志悟郎

大一四・一〇・七生 医師

主文

被告人を罰金五千円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中証人河野通人に支給した分は被告人の負担とする。

本件公訴事実中遺棄致死の点について、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は牛深市牛深町二千六百五十五の一番地において立志医院を経営する医師であるが、昭和三十四年二月十七日午前十一時頃宮本イツヨが同医院二階「に」号病室において男児を出産したところ、同児は生きて生れていたにもかゝわらず右イツヨが監護養育の責任を果さず、僅かに右男児を腰巻一枚につゝみ寝台の上に寝かせ、毛布一枚をかけたのみで、火の気のない同病室に置去りにしたまゝ、同日午後六時頃自宅に帰つて仕舞つたため、右嬰児は翌十八日午後五時三十分頃同病室で寒さのため、急死するに至つたのであるが、被告人はこのことについて同日頃同医院において、牛深市役所に提出すべき死胎検案書を作成するに際し、その情を知り乍ら、恰かも宮本イツヨが同月十七日午前十一時頃同医院において、死産児を分娩したものであり、且つ自然死産の原因が早産で生活力薄弱なためであつたかの如く内容虚偽の記載をなし、以て、医師として公務所に提出すべき右私文書一通に虚偽の記載をなしたものである。

(証拠の標目)(略)

(判示事実に対する法令の適用)

判示事実は刑法第百六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するので、所定刑中罰金刑を選択し、右罰金額の範囲内で被告人を罰金五千円に処し、右罰金を完納することができないときは刑法第十八条により金五百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、訴訟費用につき刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を適用し、証人河野通人に支給した額を被告人に負担させる。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、生産児が生後間もなく死亡したときは死胎検案書を作成する慣行があるので、被告人は漫然とこれに従つたまでであり犯意もなければ違法性も欠く旨主張するのであるが、判示の如く被告人は前記嬰児の死亡日時死因等が真実に合致していないことを諒知していた以上、前記の如き記載が慣行上許されていたものと誤信していたとしても、それはいわゆる法律の錯誤にすぎないのであつて、罪を犯す意思がなかつたとなすことはできない。加えるに、この点に関する第三回公判調書中証人脇達也の供述記載及び被告人の当公廷での供述も、これを公判準備における当裁判所の証人河野通人に対する尋問調書、第四回公判調書中証人岡島寛一の供述記載と対照すれば、直ちに本件の如く急死した場合に右の如き慣行があるものとは断定し難く、他に被告人において右行為を許されたものと誤信するについて相当の理由があることを認め得べき資料もないから弁護人の前記主張は到底これを容れ難い。

(遺棄致死の訴因について)

ところで本件公訴事実中遺棄致死の事実は、本件記録中における検察官の起訴状記載第一のとおりであるからここにこれを引用するが、検察官の主張は要するに、被告人は医師として事務管理乃至条理に基き、宮本イツヨは母親としての監護義務に基き、夫々嬰児を保護すべき責任があるにもかかわらず、共謀してその生存に必要な保温哺育等の措置をとらず、遺棄し、よつて同児を死に至らしめたというに在る。そうして宮本イツヨがその分娩した嬰児に対する監護の責任があるのに、何等の保護措置をとらず病室に置去りにしたので、嬰児が出生後三十時間位を経た昭和三十四年二月十八日午後五時半頃に死亡したことは判示事実前段のとおりである。しかし乍ら

(第一点 保護義務) 被告人を刑法第二百十八条の遺棄罪に問うためには被告人に右嬰児を保護すべき責任があることがその要件であることはいうまでもなく、その責任は法令の規定、契約、慣習、事務管理その他条理によつて発生することが考えられる。

検察官は先ず事務管理によつて被告人に保護責任が発生したと説く。ところで事務管理は義務なくして他人のために事務の管理を始めた場合にはじめてその義務が発生するのであり、未だなんら事務管理を始めない者にはなんら義務も生じないものである。前掲各証拠を綜合すると「宮本イツヨは嬰児を自然分娩する意思なく当日なんら出産用品を用意せず被告人方に駈け込み、被告人に対し適宜の方法で嬰児を死亡させ始末してほしい旨懇願したが被告人がこれを拒絶している内被告人方病室で男児を分娩したので、被告人は嬰児に附着する汚物を拭き取つた上被告人方看護婦が他の入院患者からネルの腰巻一枚を借受け来りこれに嬰児をくるんでイツヨに引渡したこと、被告人方医院においては入院時患者側においてそれぞれ布団保温用具など分娩保育に必要な一切の物品を準備して来るものとし、被告人方としては看護婦が口頭で育児上の指導をする程度で特に出産用物品の貸与などはしない慣例であつたが、イツヨは前記のようになんの用意もなかつたので被告人は同女を入院させた際外来用布団上下各一枚とタオル一枚を貸与したこと、判示事実前段に記したように宮本が分娩後嬰児を置去りにして立去つた後も被告人自ら或は看護婦において時折嬰児を寝かしていた病室をのぞき見た外宮本の立戻ることを期待して格別の措置を講じていないこと、被告人は嬰児死亡の直前往診の帰途同僚の医師を訪ねて事情を述べ自らの採るべき措置について相談していること」がそれぞれ認められる。そうすると被告人は分娩終了し嬰児を母親に引渡した後宮本の行為に対して困惑しながらも専ら消極的な態度に終始したのに過ぎず、被告人において宮本イツヨのため或は嬰児のために生存に必要な監護行為を開始したものとは認められず、その他本件に現われた全証拠によるも被告人が右監護行為を開始した事跡を認めることができないから被告人に対し事務管理に基く保護責任は到底発生するいわれがないといわねばならない。

次に検察官は条理に基く保護責任を主張する。判示事実を含めてこれまで認定した諸事実、被告人が特に人命を尊ぶべき医師を業とし右嬰児は数時間前に自らとり上げた新生児であつて母親から放置されたままになつている事実、被告人において哺乳保温その他右嬰児の生存に必要な措置を講じていたならば、該児の生存を維持し得たかも知れないこと(以上の事実は前掲各事実から推測される)しかも右の監護措置を講ずることは被告人にとつていわゆる一挙手一投足の労でなし得たことなど考え合せると被告人において宮本イツヨが嬰児を置去り遺棄するのを黙つて見ていたことは徳義上相当の非難に値することは明らかであり、被告人が嬰児の遺棄されている事実を警察官憲又は児童福祉機関に直ちに通知する義務を懈怠したものである(軽犯罪法第一条第十八号、児童福祉法第二十五条参照)けれども、被告人に法律上の保護義務を認め遺棄罪に問うことは条理上も相当でないと断定する。

この点に関する検察官の主張も亦採用できない。

なるほど被告人は医師であるけれども医師は診療をした場合患者の保護者又は患者本人に対し医療等に関して必要な指導をなすべき義務を負担する(医師法第二十三条)けれども契約もないのに直ちに医師に入院患者に対し看護付添哺育等の義務を認める法令の規定は存しない。

又前記認定のように宮本イツヨは被告人方に入院する際被告人に対し嬰児を死亡させてほしい旨申入れているので被告人方医院に分娩のため入院する際被告人が嬰児を保護すべき債務を負担したものでないことも明らかである。

その他本件に顕われた全証拠によるも被告人に嬰児を保護すべき法律上の義務を認むべきなんらの根拠も発見し得ない。そうすると被告人に独自の保護責任があることを前提とする検察官の主張はその他の点について判断するまでもなく失当である。

(第二点 共謀関係) そこで、被告人において果して宮本イツヨの犯行に共謀した事実があつたか否かについて見るのに、元々共謀共同正犯の成立には、犯人相互の間に意思の連絡乃至共同犯行の認識あることを要するのであつて、単に他人の犯行を認識していただけでは、それを目して共謀者と言うことはできない。これを本件について見るのに、前掲証拠1、2及び5によれば、なるほど宮本イツヨは男児を分娩後生活苦と世間体を恥じて一時は嬰児に始末して呉れなど被告人に依頼したことがあり、被告人自身もその様な同女の境遇に一抹の同情の念を抱いていたことはこれを認め得ないではない。しらし乍ら、反面においてその際被告人は医師としてその様な措置はとれない旨述べ、はつきり拒絶の意を表し、その置去りにして自宅に帰ろうとした際にも亦、分娩当日に帰ることの無謀を戒しめて母体にも嬰児にも責任が持てない旨説いてその反意を促した事実も夫々肯認されるのであるから、これらの諸点を彼此考察すると、その際被告人と宮本イツヨとの間に、前記の如き意思の連絡乃至共同犯行の認識が存したものと直ちに断定することはできない。

その他記録を検討しても本件遺棄致死の訴因を確認すべき証拠がない。して見ればこの点につき刑事訴訟法第三百三十六条後段を適用し、被告人に対し無罪の言渡をしなければならない。

よつて主文のとおり判決をする。

(裁判官 安東勝 松本敏男 鍋山健)

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